前回、「叱る」と「怒る」の違いについて、記事を書きました。
あなたは、この記事を読んで、どう思いましたか?
「そうは言っても、うちの子はいくら言っても分からない。」
「言っても分からないんだから、厳しくしつけないと、この子のためにならない。」
「言うことを聞かないし、どうしても怒っちゃうよ。」
こんなふうに思われた方も、いらっしゃると思います。
もしそうでしたら、ぜひこの記事を読んでみてください。
親とは教育の経験がない教育者
子供を育てる方法
子供の教育方法
お金に関する知識・・・
これら全て私達は、学校で習ってこなかったことです。
あなたは子供が熱を出したら何度で医者に連れて行きますか?
あなたの教育方針は何ですか?
利回り計算をするときに、72の法則をご存知ですか?
どんな親も、子供を育て、教育していくことは避けて通れません。
当然ですが、ほとんどの親の場合、教育する立場になった経験がないまま、教育者になります。
分からないことがある度、自分で書籍やネットで調べたりして、試行錯誤を繰り返しますよね。
真面目で優秀なお父さんやお母さんほど、陥りがちなワナ
真面目で優秀なお父さんお母さんほど、子供の欠点がいろいろと目に付きます。
また食べこぼしている。学校の用意が遅い。宿題をしない。挨拶をしていない。背筋が悪い。服を泥だらけにした。etc
「早く用意をしなさい」「早く宿題をしなさい」「背筋を伸ばしなさい」「食べこぼさない」「毎回言わせないで。」
外に出しても、恥ずかしくない子供に育ててあげないと・・・。
子供のために、一生懸命、欠点をなくしてあげようと努力する。でも一向に良くならない・・・。
そんな経験ないでしょうか?
本当は、探さなければならないことは、欠点ではなく、その子の良い所を見つける努力をしなければなりません。
想像してみてください。
あなたは、夕方から一生懸命夕飯を作りました。
今日の夕飯はサバの塩焼きです。
いつもはお惣菜で買うところですが、今回は、頑張ってお魚を買って、自分で捌いてみました。
塩加減がよくわからず、微妙になってしまいましたが、何とか完成しました。
そして、ご主人が帰宅し、夕飯を一緒に食べます。
ご主人がサバの塩焼きを食べて、こう言いました。
「今日の塩サバは塩がきいていないから、イマイチだね。」
「あと、ちょっと焼きすぎで、パサパサしてない?」
「とりあえず、醤油かけるから、とってくれる?」
あなたは、ご主人の言葉に対して、どう思いましたか?
せっかくあなたが、一生懸命作った晩御飯を、味が濃いだの薄いだの、固いだの柔らかいだのと、ご主人からこう言われたらイラっとしますね。
また、頑張って料理しようと思わなくなりますし、2度と作らないと思ってしまうでしょう。
では、もしこのご主人が次のように言ってくれたら、あなたはどう思いますか?
「味がいつもと違うね?どうしたの?」
「自分で捌いてみたんだ!すごいじゃん。」
「僕は、もうちょっと塩がきいている方が好みだな。」
「次はもっと美味しくなると思うよ。お願いしてもいいかな?」
先ほどのケースと違って、このご主人は、あなたが作ってくれた料理に対して喜んでくれています。
また、イマイチになってしまったサバの塩焼きでも、褒めるところを見つけてくれています。
もし、ご主人からこう言ってもらえれば、あなたは「今度は頑張ってみよう」とヤル気が出ますし、自然と料理が上手になっていくでしょう。
実は、欠点を見つけるということは、誰にでもできてしまうことなのです。
ですから、真面目で優秀な人ほど、さらに多くの欠点がいろいろと目に付いてしまいます。
でも反対に、何かしら良いところを見つけるということは、とても難しい作業なのです。
これは、常に意識して、良い所を探す努力をしなければ、できないことなのです。
子供が言うことを聞かない
「どうして、いくら言ってもわからないの!」
「言うことを聞きなさい!」
「早く〇〇しなさい!」
教育に関して学んだことがない私たちは、ついつい、子供に対して「しつけ」や「教育」という名のもとに、「指示」や「怒鳴る」ことをしてしまいます。
親としても、子供が自分の思うように動いてくれなくて、ついイライラが募ってしまいますね。
「この子はいくら言っても聞かないんだから!」と言って、ついつい怒鳴りつけてしまう。
でも怒られることでは、状況は改善しません。
むしろ、ますます泥沼にはまっていきます。
子供に「いい子でいてほしい」のならば、親が工夫して、子供に「いい子でいたくなるようにさせる」努力が必要になります。
親が子供に対して、思うように「行動して欲しい」のであれば、子供が「行動したくなる」ように工夫しなければなりません。
とはいえ、なかなか行動に移すというのは、難しいものがあります。
よく子供を怒ってしまうという方は、ぜひ次の一文を読んでみてください。
父は忘れる
D・カーネギーの『人を動かす』:(Dale Carnegie)『How to Win Friends and Influence People』に記載されている一文を紹介します。
この本は、昭和11年に初版が発行されてから、世界各国で数千万部売れ、未だに増版されている名著として知られています。
かなり長めの引用ですが、良文ですので、ご覧ください。
あなたが、子供たちに小言を言いたくなったら、-あなたは、私がまた「小言はいけない」と言うのだろうと思っているに違いない。
ところが、私は、そうは言わない。
まず、アメリカ・ジャーナリズムの古典の一ついわれている『父は忘れる』という一文を読むようにすすめる。
この文章は、最初ピープルズ・ホーム・ジャーナル誌の論悦として発表されたが、のちにリーダーズ・ダイジェスト誌が要約して掲載した。この『父は忘れる』は、ある瞬間の誠実な感情に動かされて書かれたものだが、読むものの心を深く動かすすぐれた作品として、今では不朽の名作となり、いろいろな場合に引用されて、社会に大きな反響を呼んでいる。
父は忘れる(リヴィングストン・ラーネッド)
坊や、聞いておくれ。
お前は小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、安らかに眠っているね。
お父さんは、ひとりで、こっそりお前の部屋にやってきた。
今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。
罪の意識にさいなまれてお前のそばへやってきたんだ。お父さんは考えた。これまでわたしはお前にずいぶんつらく当たっていたのだ。
お前が学校へ行く支度をしている最中、ちゃんと顔を洗っていないといって、叱った。
靴を磨かないからといって、叱りつけた。
また、持ち物を床の上に放り投げたといっては、どなりつけた。今朝も食事中に小言を言った。
食べ物をこぼすとか、丸呑みにするとか、テーブルに肘をつくとか、パンにバターをつけすぎるとかいって、叱りつけた。
それから、お前は遊びに出かけるし、お父さんは駅へ行くので、一緒に家を出たが、別れるとき、おまえは振り返って手を振りながら、「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。
すると、お父さんは、眉をひそめて、「背筋が曲がっているぞ!」といった。同じようなことがまた夕方に繰り返された。
私が帰ってくると、お前は地面にひざをついて、ビー玉で遊んでいた。
タイツはひざのところが穴だらけになっていた。
お父さんはお前を家へ追い返し、友達の前で恥をかかせた。
「タイツは高いのだ。お前が自分で金をもうけて買うんだったら、もっと大切にするはずだ!」-これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない!それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいる時、お前は、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。
うるさそうにわたしが目をあげると、お前は、入口のところで、ためらった。
「何の用だ」とわたしがどなると、お前は何もいわずに、さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。
両の手をわたしの首に巻きつけて、わたしにキスした。
お前の小さな両腕には、神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。
どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。
やがて、お前は、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。ところが、坊や、そのすぐあとで、お父さんは突然なんとも言えない不安に襲われ、
手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。
何という習慣に、お父さんは、取りつかれていたのだろう!叱ってばかりいる習慣-まだほんの子供にすぎないお前に、お父さんは何ということをしてきたのだろう!
決してお前を愛していないわけではない。
お父さんは、まだとしはもゆかないお前に、無理なことを期待しすぎていたのだ。
お前を大人と同列に考えていたのだ。お前の中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。
お前の優しい心根は、ちょうど、山の向こうから広がってくるあけぼのを見るようだ。
お前がこのお父さんに飛びつき、お休みのキスをした時、そのことが、お父さんにははっきりわかった。
ほかのことは問題ではない。
お父さんは、お前にわびたくて、こうしてひざまずいているのだ。お父さんとしては、これが、せめてものつぐないだ。
昼間にこういうことを話しても、お前にはわかるまい。
だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。
お前と仲よしになって、一緒に遊んだり悲しんだりしよう。
小言を言いたくなってもこらえよう。
そして、お前がまだ子供だということを常に忘れないようにしよう。お父さんはお前を一人前の人間とみなしていたようだ。
こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりお前はまだ赤ちゃんだ。
昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。
お父さんの注文が多すぎたのだ。人を非難する代わりに、相手を理解するように努めようではないか。
どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。
そのほうがよほど得策でもあり、また面白くもある。
そうすれば、同情、寛容、好意も、自ずと生れ出てくる。すべてを知れば、すべてを許すことになる。
イギリスの文学者ドクター・ジョンソンの言によると-「神様でさえ、人を裁くには、その人の死後までお待ちになる」まして、我々がそれまで待てないはずはない。出典:人を動かす D・カーネギー
どうでしょうか?
この、D・カーネギーの本は、一般的にはマネジメントの本として、マネージャーやチームリーダーの立場の方が読むことが多い本です。
でも、親子関係でも、大いに学ぶ点がある本でした。
この本は初版が昭和11年ですから、今から80年以上前に発行された本です。
そんな古い本に、古典として紹介されている一節です。
親子関係は、今も昔も、例え国が違っていても、本質的なところは何も変わっていないのです。
「また今度」は言わないように
私達の子供、特に次男は、「あれなんだ~?」「ゲームした~い」「DVDみた~い」「あそんで~」とひっきりなしに、やってきます。
でも、家事で忙しい時間だと、「また今度ね」と、ついついはぐらかしてしまいそうになります。
でも、それをぐっとこらえて、
「じゃあ、お片付けを手伝ってくれたら、一緒に〇〇しようか?」
「〇〇できたら、ご褒美に〇〇だよ。」
と言って、できるだけ子供のために、時間を割いてあげるように努力しています。
でも、正直、本当に大変です。
それでも、「また今度」は、できるだけ言わないようにしています。
なぜなら、たいていの場合、その「また今度」はいつまでたっても来ませんし、子供たちもそれを知っているからです。
もし、断らなければいけない場面でも、私は今ではこのように答えています。
「今日は、ゲーム一緒に1回やったよね。もうおしまいです。明日学校が終わって、宿題をしたら、一緒にゲームしよう。」
「今日は、まだお手伝いしていないよ。じゃあ、お片づけのお手伝いしてくれる?これが終わったら一緒にゲームしよう。」
たとえ子供であっても、相手を尊重して、ちゃんと約束するようにしています。
努力の甲斐があり、今では進んでお手伝いをしようと、頑張ってくれます。
お手伝いですが、最初は、教えることがとても大変で、自分がした方が早いと思ってしまいますが、温かく見守ることにしています。
それは、子供たちが「お手伝いをしたい」という意欲的な気持ちが、とても嬉しいからです。
いかがでしたでしょうか?
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もし、子育てでお悩みの方がいらっしゃいましたら、何かしらのヒントが得られるかもしれないので、下からダウンロードしてみてください。
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